はじめに

 このページは、カール・ロジャーズの「クライエント中心療法」の解説とその影響を受けた大段智亮氏による「人間相手の援助」についての研究を紹介しています。

 大段智亮氏は、ロジャーズの「クライエント中心療法」の理論を京都大学で正木 正教授から学び、その実践を通して、特に我が国の医療現場に数多くの援助者を育成されました。  このホームページは、教育、福祉、医療といった 「人間相手の援助」の仕事をしている方やこれからカウンセラーなどの仕事をめざしている方に、ぜひじっくりと読んでもらいたいと願っております。

大段智亮氏の紹介


 神戸生まれ。京都大学文学部/教育学部において、 哲学/教育学/治療心理学などを学ぶ。その後、学校教育/医療/社会福祉に身を置き 『援助的人間関係』の課題に取り組んできた。後に、龍谷大学社会学部教授となる。  また、看護人間学教室を主宰し、医療や看護に携わる人達の学習の援助者として活躍してきた。
1993年10月逝去。


援助的関係の理論

 この援助的関係、前向きの関係、成長促進の関係をきわめて厳密な臨床的研究によって突き止め 、はっきりした形でそれを示してくれたのが、カール・ロジャーズです。

 カール・ロジャーズ「クライエント中心療法」の眼目とするところは、 「人間相手の援助」ですが、それは、新しい知識を与えたり、何かをしてやったりすることではありません。 相手がいま直面している苦境をのりこえて自分の足で前進してゆけるようになるのに必要なことは、 「あるタイプの人間関係」を提供することです。つまり、「援助的人間関係」を提供することが、 その人への援助になると言うのです。もう少し詳しく説明しましょう。

 臨床家としてのロジャーズの課題は、どこまでも「苦しみ悩んで援助を必要としている人に有効で意味ある援助を提供する」 ということでした。日常、彼はそれを実践し、その中から「今、自分がやっているのは、本当にこの人のための援助の意味を 持っているのだろうか」といった問題意識を持つようになるのです。
 そして、そういう問題提起の中から、これまでの考え方ややり方、つまり今まで無意識的・意識的に抱いてきた人間理解は 果たして現実の人間性の事実を把握しえているか、又、われわれが普通にやってきた援助の方法は、果たして真の援助の意味 を持っているか、といった研究を積み上げていったのです。

 ここで、まず「これではいけないと気づいたこと」から説明する必要があろう。
だんだん、私自身の胸にしみてきた切実な事実があるのだが、それは知的な方法や訓練的な方法によっては、こうした心理的 に問題を持った人の援助はできないということであった。 知識(knowledge)とか訓練(training)、つまり何かいわゆる教えられたものを相手が受け入れる、ということに頼った 方法は、全て何の役にも立たないのである。
 こういう方法は、なかなか心を引くし、直接的でもあるので、私も過去においては、随分そういう方法をやってみたので ある。その人のことをその人自身に説明してやる。その人の進むべき段階を指し示してやる。もっと満足すべき人生の生き 方について、知識の面でその人を訓練する。どれも、できないことではない。
しかし、私の経験からすると、こういうやり方は実り少なく、見当違いと言うべきだ。せいぜい一時的変化がみられるだけ。 それもまもなく消え去って、結局、そうした不適応をいよいよその人に確信させるに終わるのである。

 勿論、こうした方法は、どんな場合にも無効だと言っているのではありません。負傷した人の応急手当の方法とか、パソコン や機械の操作方法など、意味のある場合もあります。
ロジャーズがここで強調しているのは、個人の適応問題とか、人間関係の問題において、教えたり、指示したり、忠告したり することが、いかに効果のないものであるか、ということなのです。適応問題で悩み、人間関係の破れに苦しんでいる人に 「教える」「知識を与える」という方法ではダメだ、といっているのです。
では、どんな方法があるのか、それが重要なところです。

さて、私の中にある変化が起こったのだが、それを簡単に述べてみると、次のようになるであろう。 現在の仕事(カウンセリングと精神治療)を始めた最初の頃、私が努力したことは、「自分はどのようにしたら、この人を うまく処置してやれるだろうか、癒してやれるだろうか、また、変えてやれるだろうか」(How can I treat or cure or change this person ?) ということであった。
 現在の私の課題を、これと同じ形で言ってみると、こんなふうになるであろう。
「この人が”自分自身の人間的成長のために活用出来るような人間関係”を提供するには、私はどうしたらいいのだろうか」 (How can I provide a relationship which this person may use for own personal growth ? )

ロジャーズ自身の中で起こった変化が、ここで、誠に明確に表現されています。
医療であれ、福祉であれ、教育であれ、とにかくこちら側が相手に何かしてやる、というのが普通です。 いろいろ教えてやる、忠告してやる、暗示してやる、指導してやる。相手は、もっぱらそれを受け、それに従い、それを 守って、それにより救われ、治り、成長する。
これが、普通の筋道です。ロジャーズもまた、カウンセラーないしセラピストといった臨床の仕事を始めた頃は、この、ごく 普通のやり方に立って、仕事を進めてきました。
 ところが、自分自身や仲間たちの実際の臨床経験を深く検討する中から、ロジャーズ自身の中で、大きな変化が起こった のでした。それは、「逆転」と言ってもいいでしょう。
 そこで、ロジャーズの、この「援助的人間関係」を提供するための「援助者としての態度の条件」を解説します。


 
援助者としての態度の条件

『真実性』

・まず、援助者の『真実性』といった傾向です。

 『透明性(transparency)』と言っても良いし『自己一致(congruence)』 と言っても構いません。  つまり、表裏がない。ごまかしがない。真剣で正直、ざっくばらんといった態度の ことです。

ここでロジャーズのいう「genuineness」、つまり「純粋さ」「純一無雑」とは、ど んなことか。その中味について、もう少し説明しておきます。 ロジャーズは、こうした援助者の態度を表現するのに、例えば、カウンセラーの「真 実性」(realness)とか、「透明さ」(transparency)とか、「一致」( congruence)とか表現していますが、つまるところ、カウンセラーがありのままであ り、純粋であって、飾りや見せかけがなく、その瞬間瞬間に自分のなかを流れる感情 や態度が素直にあらわされているということなのです。  「あなたは、あなた自身であれ」  「ありのままの自己自身であれ」 と言うと、まるで禅の教えのようですが、ロジャーズは、こうした援助者の人間的状 況を重要視しています。私達の日常用語でいえば、「素直さ」という表現があたって いるかも知れません。  アーサー・ジャーシルドという児童心理学者は、親の態度を論じる一章のなかで次 のように言っています。 「良き親であることを見せるための一幕を上演する義務などは、感じないことである 。面白くもないのに喜色満面の振りをしたり、楽しくもないのに楽しそうにしたり、 子供に困らされているのに、一向平気な顔をしてみせる。こうした無理はしないこと である」と。  また、面接場面において、「相手が怒ると困るから、当たりさわりのないような話 題から始めた方がいい」と言う人がいますが、私はこういう考えには反対です。 怒ると困る、というようなへっぴり腰では、到底本格的な援助者にはなれないでしょ う。「真実であること」は、勇気がいることです。よほどの覚悟がいることです。 そうした勇気も覚悟もなく、遊び半分のような考えで、「人間相手の援助」をやろう ということ自体、間違っていると思っています。


 
『受容』

次に必要なのは『受容 (acceptance)』の態度です。

「受容」は、「共鳴」や「同感」とどう違うのか。「受容」と「理解」は、またどう 違うのか。このように厳密に確かめてみると、あやふやなことが多いのです。 「受容」というのは、やはり専門的な学術用語の一つですが、「受け入れる」と読め るので、そこにごく常識的で日常用語的な解釈と使用法が生まれてしまうのです。

ロジャーズは、次のように言っています。
「第2の条件として確かめてきたこと。私が相手に対して「受容」(acceptance)と 「好意」(liking)を感じれば感じるほど、この人が活用できるような関係をつくり 出すことになるということである。  私がここに「受容」(acceptance)という言葉で意味する内容は、温かい気持ちを もって、その人を「条件付きでない自己価値」(unconditional self-worth)の持ち 主とみることである。つまり、その人の境遇、行動、感情のいかんにかかわらず、そ の人が固有の価値をもつ主体であるとみなすことなのである。

 一個独立の人格として、その人に敬意をはらい、好意をもって、その人がその人流 のやりかたで、その人自身の感情を抱くことを喜んで認める、そういうことなのであ る。その人の現在の態度が後ろ向きであると前向きであるとに関わらず、また、それ が過去に示した態度とどんなに矛盾したものであろうと、それをありのまま受け入れ るように心を注ぐことを意味しているのである。」

 「受容」は、まず、相手の示す考えや感情に対して、評価したり、解釈したりしな いことです。世間一般の常識とか自分自身の規準によって、良い、悪い、効果がある 、ない、正しい、正しくない、といったように裁くことは、評価的態度です。 また、相手の言葉の奥にあるものは何か、相手にそう言わせている原因は何か、とい った探り方をしたり、それはこんな意味だと教えるのは、解釈的態度です。  「受容」は、相手の表現、感情、考え方をありのまま受け取って、こちらの解釈で ゆがめたり、評価したりしない、ということです。 「受容」は相手にたいする是認や共鳴とは違います。賛成、反対とは、全く違った次 元のものなのです。 ありのままを素直に受け取り、受け止めることなのです。
 また、ロジャーズは、次のように言っています。

他人やその人の感情を心から受容することは、理解すること以上に困難であり、 決して生やさしいことではないのです。私に敵意を持っている人を、私は本当に 許せるでしょうか。他人の怒りをその人自身の真実で正当なものとして受容できる でしょうか。人生とその問題の見方が私とまったく異なっている人を、私は受容 できるでしょうか。私に非常に好意をもち、敬服し、私を見習おうとしている人 を、受容できるでしょうか。受容ということは、これら全てを含んでいるのです。  しかし、人はそれぞれ独自の存在であり、自分の経験を自分なりに活用し、その 中に独自の意味を見出す権利を持っているということ・・・・こうしたことが人生 の最も貴重な潜在力のひとつであるように私には思われてきました。 人はみな、非常に現実的な意味で、それぞれ自分自身という島のようなものです。 したがって、私が他人を受容できるということは、彼の感情や態度や信念などを 現実の生きた彼の一部として受容することであり、その時私は彼が一人の人間と なることを援助しているのです。
 このような意味から、「受容」することことは私には大変価値があるように思わ れます。


 
『共感的理解 (empathic understanding)』

・もう一つ重要なのは、『共感的理解 (empathic understanding)』の態 度です。

普通、私達は、「理解する」という言葉をずいぶん使っています。一般的に、よい意 味、プラスの方向で使われることが多い言葉です。ですから、「彼は理解的な態度を とっている」といえば、好意的、積極的、肯定的な傾向がみられるというだけでなく 、彼の精神的能力の大きさを称賛しているような趣さえもっています。  しかし、「理解する」「わかる」という言葉の内容をよく吟味してみると、なかな か多くの問題をはらんでいます。そこに、ロジャーズが「共感的」理解とか「感情移 入的」理解といった厳密な限定をしている訳があります。 さて、それでは、「共感」とはどんな意味なのか。「広辞苑」(第4版)によると、 (sympathy の訳語) 他人の体験する感情や心的状態、或いは人の主張などを、自分も 全く同じように感じたり理解したりすること。同感。 と、あります。この辞書によると、共感は同感であり、英語の sympathy の訳となっ ています。 しかし、ロジャーズのいう「共感」には empathy という言葉が使ってあり、 sympathy ではないのです。 empathy 「共感」とは、心理学でいう「感情移入」のこ とだとされていますが、ロジャーズ自身は次のように説明しています。

次の条件は、クライエントの自己自身の体験についての意 義に対して、セラピストが正確な、共感的な理解(empathic understanding)を体験 するということである。 「クライエントの私的な世界を、あたかも自分自身のものであるかのように 感じとり、しかもこの<あたかも〜のように(as if) という性格を失わない でいること―これが共感(empathic) なのであり、治療にとって肝要なもの と思われる。
つまりクライエントの怒りや恐怖や混乱を、あたかも自分自身のものである かのように感じとり、しかも自分の怒りや恐怖や混乱をそのなかに巻きこま ないようにすること。これがここで説明している条件なのである。」

 こうしてロジャーズの概念規定をじっくり読んでいただくと、「共感」が、いわゆ る同情とか共鳴といったものと根本的に違うことが分かってもらえるでしょう。 とりわけ大切なことは、「あたかも〜であるかのように」(as if) という条件を失 ってはいけない、という点です。ごく普通にいうと、「それは、やさしく同情し、温 かく共鳴することだけれども、そこには断固たる一線が引かれており、あなたはあな た、わたしはわたし、というケジメが確立している」ということになるでしょう。 こうした厳しさ、関係の明確性こそ、いわゆる常識的な親切心と違った治療的・援助 的な努力の特質だといえると思います。  こうしてロジャーズは、主に「真実性」「受容」「共感的理解 」の三つの態度 を治療者側の必要条件としてあげているのです。
勿論、クライエント(患者)の条件もあります。それはまずその人が「問題に 直面し」、「不安におちいって、傷つきやすい情況にいる」ことです。そ して、その人に援助を求める気持ちが強ければ強いほど、また、それがスト レートにでてくる情況であればあるほど、援助的関係は成立しやすいと言っています 。


 
態度分析


援助的関係をつくりだす条件――援助者の「態度」

 さて、それでは、そうした援助的関係を提供するには、援助者はどんな努力をしたらいいのでしょうか。そこが、知りたいところです。

 ずばり言えば、あなたの「態度」が問題なのです。
相手に対するあなたの「態度」が、援助的関係を成立させるような「態度」であればよろしい。
そうでなければ、他にどれほど知識があっても、深遠な学説を知っていても、相手との間に援助的関係は成立しません。
重要なのは、援助者の「態度」なのです。
「態度」の次元において、「人間関係」は生ずるのです。

「自己一致」「受容」「共感的理解」、こういった援助者の側に立てられた条件は、すべて援助者の「態度」を表現しているのです。
 「援助者は、一体どうしたらいいのか」という問いに対しては、「あなたの態度を援助的なものにせよ」と言うしかありません。

あなたの態度分析

 それでは、あなたは、今、どのような「態度」をとっているか。
自己の態度分析をしてみましょう。


1 ある手術患者の場合

 「あのね、○○さん、僕ね、もうこの頃、心配で、こわくてたまらないんだ。手術のこと思うとね、こわいんだ。
万一の時はどうする。それに何か、こう、身体がばらばらに壊れていくみたいでね。
夢に見てね。僕の横っ腹がぱっくり開いて、血がどろどろ流れてる夢をね。
ああ、どうしたらいいかなあ」

 これに対して、さまざまな応答が考えられますが、あなたの応答は、次のどれに属していますか。

(1) そんなに怖がらなくても、大丈夫よ。あなたの栄養状態もいいし、手術する先生達も腕がいいし。手術の失敗なんか、考えられませんわ。

(2) そんなに怖がっていたら、せっかくの手術もうまくいかないわ。しっかりして下さいよ。

(3) あなたのそういう恐怖心、手術のことからくるのじゃなく、原因は心の中にあるのじゃないですか。何か、こう、心の中におかしくしているようなことがあって。

(4) 怖くて、怖くて、じっとしておれない気持ちなのね。

(5) 手術について、主治医の先生から、よく説明をきかれましたか。


2 ある看護学生の場合

 「私ね、もう、看護婦やめようかと思うんです。何か、もう、看護婦の仕事が、自分に向かないんじゃないか、と思って。
せっかくね、ここまでやってきて、と、思わないこともないんですけど。
看護学校へくるのも、お父さんやお母さんの反対を押し切ってきたのだし…。
それを思うと、どうしようかと、私、困ってるんです」

(6) 何か、もうやめたいと思うような事件があったのね。一体、何があったの。

(7) 私も度々そう思ったものよ。誰でも看護婦になるときは、そういう迷いに一度はぶつかるものなのよ。

(8) もう、ここまできて、そんなこと言うなんて。そりゃあ、思い返したほうがいいわよ。

(9) 私の思うにはね。あなた、看護婦という仕事に理想を持ちすぎたのじゃない。現実はそういうものじゃないわよ。

(10) 看護婦をやめたいといっても、やめるにゃやめられないし、ほんとに困ってるのね。

以上の1と2のケースに、あなたの応答として、最も近いものを選んでから、次の解説に進んでください。


 さて、面接者の態度を検討する道具として考えだされたのが、ポーターの態 度分析です。

ア 評価的態度

 「評価的態度」というのは、相手の言葉、感情に対して、正しいとか、正く ない、善とか悪、あるいは効果があるなし、適当不適当といった判定を、面接 者側から下すような態度のことをいいます。
 そして、この態度は、結局は「そんな考えをしてはいけない」「こうすべきだ」といったお説教につながっていくのです。
○ 1の場面―(2)、2の場面―(8)

イ 解釈的態度

 「解釈的態度」というのは、相手の訴えに対し、客観的にそれをながめて、 「そういうことの裏には、こういうことがあるに違いない」等と推測する態度 です。つまり、因果関係の説明であると言えます。
ここで成立する人間関係は、援助者本人が仮に意識していなくても、上から下 への関係となり、援助者は、上位者とてしふるまうことになります。
○ 1の場面―(3)、2の場面―(9)

ウ 調査的態度(診断的態度)

 「調査的態度」というのは、いろいろ情報を求め、この点あの面について話 をしてほしいと要求する態度です。いわゆる「事情聴取」です。
○ 1の場面―(5)、2の場面―(6)

 実際の面接場面では、この三つの態度の混合したやり方が多いのです。
 この三つの態度をとる場合、援助者は、客観的な構え、言い換えるとクライアントに対し、第三者の立場をとっていると言えます。

エ 支持的態度(同情的態度)

 「支持的態度」というのは、不安や怖れにおそわれている相手に対し、それ を緩和して落ち着かせようとするやり方です。
例えば、「心配するな大丈夫」「あなただけではない。誰でも」という言い方 です。これは、一応温かい、やさしい態度ですから、これまでの三つの態 度よりは、より人間的だということが言えます。
 しかし、この温かさは、厳しさを欠いています。このため、真に人間的な援助 という点では、大きな失敗に終わることが多いのです。
○ 1の場面―(1)、2の場面―(7)

オ 理解的態度

 「理解的態度」とは、面接場面において、相手の言葉の中にこもっている感 情的、情緒的な内容を正確にくみとり、それがその人自身にとってどんな意味 をもつかを理解しようとする態度です。
 あなたの言うことは、こういうふうにきこえたのだが、それで正しいのだろ うか。こんなふうにわかったのだが、それは、あなたの言いたいことをピッタ リとらえているだろうか。こういうふうに、正しく、歪めないで、相手の言葉 のなかにこもっている意味を受け取っていこうとする態度のことです。
○ 1の場面―(4)、2の場面―(10)


「コミュニケーションの障壁と通路」

 ロジャーズの有名な論文に、「コミュニケーションの障壁と通路」というのがあります。
人間相互の間のコミュニケーションをさまたげる障壁は何かというと、「評価的傾向」であると述べています。
この傾向は、非常に自然に起こるものですが、これこそ二人のひとの相互関係を歪めたり、こわしたりする障害となっている、と言っています。

 言いかえると、我々はすぐに、それは良い、それは悪い、それは正しい、いや、間違っている、私の考えに合う、合わない、といった評定、判定、評価をしがちだけれど、そうした「評価的傾向」こそ、人間相互のよき関係をこわしてしまう最大の障害物だというのです。
つまり、障害はこちら側にある、という指摘です。
 それでは、こういう障壁を乗り越えて、二人の間のコミュニケーションを成立させるには、どうしたらいいのでしょうか。
 まず、この「評価的傾向」をやめることです。
そして、これまで述べてきた「評価」「調査」「解釈」「支持」「理解」の五つの態度のうち、もっぱら「理解的態度」をとるべし、といえるでしょう。


 

「きき方」と「わかり方」

 ここでは、「きいて」「わかる」ということを取り上げてみます。
一言で「きく」と言いますが、その「きき方」にはたくさんあります。

例えば、「訊く」は、たずねる、質問するという意味です。訊問という言葉があります。
「諾く」は、相手の言うことを肯定する、言うなりになるという意味の「きく」です。
また、普通「聞く」というのは、音や声を耳で感じる(知る)、という意味です。
さらに、「聴く」は、きいた内容を理解して、それに応じることだと解説してあります。
その他、「きく」には、「利く」とか「効く」などがあります。
(三省堂・新明解国語辞典 参照)

 さて、「きいた」といっても、一体その内容はどうなのか。
「訊いた」のか、「諾いた」のか、あるいは「聞いた」のか、「聴いた」のか。 こういう問いが大切です。
なぜなら、この「きき方」によって、そこに成立する人間関係が、全く違ってくるからです。

 次は、「わかる」の内容です。
「あなたの言うことは、よくわかった」という言葉を、私達は日常生活でよく使います。
問題は、どんな「わかり方」をしたか、ということです。
「よくわかった」「君は落第だ」といったわかり方があります。
つまり、ある基準に照らしてみて、良い悪いを判定するわけですから、これは、「評価的な理解」といえます。
「よくわかった」「君の心の病気の原因は、君のコンプレックスにある」といったわかり方は、「解釈的な理解」とよべるでしょう。
また、「よくわかった」「心配いりませんよ」といった言い方は、同情的な「支持的な理解」といえるでしょう。

ロジャーズのいう「共感的理解」は、こうした理解の仕方ではありません。
それは、相手の言葉の中にこもっている感情的、情緒的な内容を正確にくみ取り、それがその人自身にとってどんな意味をもつかを理解しようとすることです。


 

「理解」に対する認識

一人ひとり独自の世界

 「わかるとか、理解するとか言うけれど、そもそも他人のことがわかるなんて、本当にできるんだろうか」といった根本的な懐疑があります。

その点、一人の人が他の人の心の中を完全に知るなどということは、到底できることではないと、断固としてわきまえておくべきです。

ローラッヘルという心理学者は、その優れた書物「性格学入門」のなかで、こんなふうに言っています。

心理学上の認識のなかで、安心して広めることのできるものはほとんどないが、ただひとつのことは確信をもって言うことができる。それは、「あらゆる人間は、いつもそれぞれ独自の世界に生きているという主張」である。

今、仮に、ある人が自分の兄弟とか親友のようにごく身近な人に完全になりきって考えることができたとすると、彼は自分が全く別世界に入り込んだと感じるにちがいない。
ほんの身近にあるごくありふれた日用品でさえも、全く同じ知覚の仕方で把握するものは二人といない。この場合、問題は感覚器官、色彩能力、視力、聴力といったものの違いではない。あらゆるものが、あらゆる人間に対して、それぞれ別の体験価値をもち、それぞれの関心に応じて、その意味が大きいことも小さいことも、又全然ないことさえある。

このことが重要なのである。そして又、その時々の精神状態とか気分の違いによって大きな影響を受けることも、考えあわせなくてはならない。
例えば、同じものを見るのでも、初めて見るとき、二度目に見るとき、百回目の時では、みな違っている。同じ場所であっても、そこで何かすばらしいことを体験した場合と、いやな目にあった場合とでは、違った意味をもつことになる。我々の周囲にある多くのものは、朝と晩では違って見え、日曜と平日、冬と夏とでも違っている。

こういうふうに考えてくると、一人ひとりの人間が生きている世界には、大きな相対性のあることが明らかになります。
そして、そこで主役を演じるのは、まわりに客観的な状況ではありません。
主観的、精神的な条件です。つまり、その人の世界に何が実存するか。それが、どういう意味をその世界でもつか。それが、決定的に重要なのであり、それは、「その人自身」を理解する以外に明らかにはなり得ません。


 

感情の王国


感情の王国に働きかける一精神療法の原理

 ロジャーズは、一人の人が適応において失敗するには、「知ることにおける失敗」からくるのではない、むしろ「感情的な混乱」から起こるのだ、という見地に立っています。

個人の適応、人間関係の成立、すべてそれは知的な次元の問題ではなく、情緒と感情の次元で起こるのだ、ということですが、知性や意志の心理学に比べて、「感情の心理学」は、その研究が大変遅れています。

 人間関係における一人の人の態度や行動を支配する最も強い力が感情にあることは、われわれ皆が知っていることです。
例えば、「あいつの言っていることは正しい。しかし、あいつは、キライだ」という場合は、誰にでもある経験でしょう。
 ロジャーズは、次のように言っています。

「この、新しい精神療法は、知力の働きに頼って、情動的な面の再編成をやろうとはしない。むしろ、可能な限り直接に、感情と情緒の王国に働きかけることに、努力しようとしているのである」

 それでは、感情と情緒の王国において、直接、働きかけるとは、実際にどういうことをしたらいいのでしょうか。一例をあげてみましょう。

 ある治療的な面接場面で、クライエントが、こう言ったとしましょう。

「わたし、もう、死んでしまいたい。自殺したい。」

 それに対して、いろいろの応じ方があります。
仮にこういう言葉を私達の身近な人や友人が言ったとしますと、私達は、反射的に「とんでもない」とか、「死ぬなんて、何言ってるの」とかいった反応を示すのが普通です。

 これは、相手の「死ぬ」とか「自殺」という言葉を、表面的に、文字通り、受け取ったところに生じた反応です。
そして、この後「死」とか「自殺」を願うことが、いかに人間として無責任なことかを話して聞かせ、いかに辛くても生き抜くのが人間のあるべき姿である、といった教訓を述べるのが、一般的です。

 ロジャーズは、こういうとき、「死んでしまいたい」といい「自殺したい」という言葉の中にこもる感情的な内容をくみ取り、それに応答せよ、と言います。

「クライエントの言葉の知的内容に返答するな。その言葉の中にこもる感情的・情緒的内容に応答せよ」

これが、ロジャーズのいう

「感情と情緒の王国に働きかける」

ということのひとつです。
 「わたし、もう、死んでしまいたい。自殺したい。」という言葉に対して、ここで述べたような応答 (response) をしようとするならば、こんなふうになると思います。

「よほど、辛いんだね。辛くてたまらないんだね」
「もう、我慢のできるぎりぎりまで、追い詰められてるんですね」
「こんな人生、投げ出したいと思うほど、苦しいわけですね」

 こんな風な言葉で表される応答こそ、相手の感情の動きに直接関係を持つことのできるようなやり方だと言う訳です。

 間違わないで欲しいのは、この応答の言葉には、さまざまな表現が可能だということです。
いや、言葉など出さなくても、ただ、黙ってうなずいているだけでも良いでしょう。
言葉よりも沈黙が、はるかに深く受け取り理解したことを示す場合が、度々あります。

 この際大切なことは、「言い方」とか「言葉づかい」ではなく、その時の援助者の「態度」だということをわきまえて、もう一度こうした応答の言葉を読んでみてください。


 
 ここでは、ロジャーズが「共感的理解」を解説するために強調するようになった二つ の点をあげておきます。

理解しようとする意図を伝える

 まず、理解するときの正確さは大切だけれども、「理解しようとする意図を伝えるこ と」も重要な意味をもっている、といっています。 正しく理解することはできなかったかもしれない。しかし、理解しようと一生懸命努 力した、その意向、その努力は、相手に良く伝わった。そうした意図の伝達、努力の 伝達もまた援助的な意味をもつ、とロジャーズは言うのです。

 たとえ、混乱していたり、わけがわからなかったり、奇妙であったりする人を治療す る場合でも、私が彼の言おうとすることを理解しようとしていることを彼が知覚する ならば、そのことは援助的となる。

それは、私が彼に一個の人間としての価値を認めていることを伝えることになる。 そのことは、また、私が彼の気持ちや話を、理解する値打ちのあるものだと考えてい る事実を伝えるのである。

   (ロジャーズ/「対人関係・ガイダンスの核心」<1962年>から)


 
「いま」「ここで」の出会い

 ロジャーズが強調しているもう一つの点は、共感的理解の努力における「いま」「ここで」という点です。 ロジャーズは、「それは、いま、ここに(here and now)、 今ここでの現在(immediate present)のなかにある瞬間瞬間の敏感性なのである」と書いています。  また、「クライエントの今の存在(client's being)に正確に敏感であることが、 セラピィという瞬間瞬間の出会いのなかで最も重大なことである」とも言い、 「このようにして、クライエント中心のセラピストは、クライエントの今ここでの現象の世界 (immediate phenomenal world) に集中することを目指している」とも書いているのです。

 私達は、話し合っているそのときには気がつかず、あとから「思い当たる」 ことがよくあります。「そうだったのか。そんな意味だったのか」といった「後からの理解」 というやつです。もう一度同じことを言われたとき、こんどは正確にわかる、 という意味では、この「後からの理解」も全然無意味ではありませんが、 少なくともこの目の前の人との間に援助的関係をつくるという点からすると、 こうした「後からの理解」では、ダメだということが言えます。

これは、1966年の「クライエント中心療法」の一節ですが、その後の研究でも同 じようなことが述べられ、ロジャーズは、「いま」「ここで」という観点や、「現在 の瞬間」という考え方を強く持つようになり、それが、「出合い」(encounter)と いう概念に結びついて強調されるようになります。


 
援助的関係の具体像

 さて、これまで、ロジャーズの「援助的関係」について、解説してきましたが、も う一度総合的に、この援助的関係の具体的な姿を描き出しておきます。

 今ここに、一人のクライエントがいます。その人は、いわゆる不適応状況に陥って おり、心理的・精神的な問題状況に苦しんで、他の人の援助を求めています。

 さて、そうした人に私が本当に援助しようとするならば、その人に「援助的関係」 を提供しなさい。もし、その努力において成功するなら、必ずその人は精神的健全さ を取り戻す方向に進んでゆくでありましょう。
しかも、その根源的な力は、その人自身のなかに可能性として存在しているのであっ て、その内在している可能性は、提供された援助的関係を体験するなかで、自ら開発 し、成長し、発現していく、というものでした。

そして、援助者が援助的関係を提供するとき、どんな努力をすれば良いのかについて 、ロジャーズは、主に「自己一致あるいは真実性」、「受容」、「共感的理解」の三 つの態度条件を挙げていましたが、一体それは具体的にどういうことを指すのか、私 の言葉でおおまかに描いてみましょう。

 それは、何よりもまず、"温かい関係"です。
何を言ってもいい。どんな感情でもぶちまけられる。安心しておられる場所です。こ んなことを言ってもいいのか、大丈夫だろうか、といった他人や外部からくる脅威と いったものがない。そういう恐れを抱く必要のない。
したがって、自分を守るための身構えの必要がない。つまり、温かく、自由で、安全 なところ、自由にくつろいで、自分自身であることができるところなのです。

 しかも、何を言っても、どんな表現をしても、それをその まま受け取り、それに対する「応答」があります。
それはいいとか、いけないとか、そんな考えをする理由は何かといった評価や詮索は ありません。
しかし、そういう人間的状況を深く理解しようという「態度」を示してくれます。
正確に、ありのままに、しかも深く理解しようといった努力が自分に対して提供され る。そういった関係なのです。

 ですから、仮にも表面的に聞き流すというふうな雰囲気はありません。正反対なの です。どんなことにも、正面から、一生懸命、深く受け取り、理解する、といった努 力があるのですから、この関係は、温かいと同時に、「ある種の誠実な緊張感」に満ちているといって良いでしょう。
この誠実さという雰囲気は、また真実性といっても良いでしょう。
ザックバランで隠し立てがない。表面を飾ろうとしない。そういう点では、社交的な 会話の場とは全く違っています。

 もうひとつ重要なことがあります。
温かく、真摯で、緊張感を持つ上に、ザックバランで開放的である、と同時に、 サッパリしている、アッサリしている、割り切っている、といった傾向もあるのです。

親切で温かい、というとややもすれば「同情的」になるわけですが、この同情的とい う言葉の持っている湿った、べたべたした密着性は、援助的関係には有害なものだと 言ってよいでしょう。

「これはあなたのことであり、私のことではない」と、はっきり割り切った一線が明確に引かれており、それが一種独特な涼しさ、さわ やかさをもたらすのです。
それはまた、一種の「厳しさ」といっても良いでしょう。

「あなたのことは、あなた自身が背負っていかれるのであり、私はそのあなたの援助 者であるに過ぎない。
あなたの変わりにあなたの荷物を背負ってあげることはできない」。
これが、援助的関係の基本にある考えです。

そういう点で、"温かいが同時に厳しい、厳しいが同時に温かい"というのが、援助的関係の雰囲気だと申し上げて良いと思います。

 こういうふうに説明してくると、ロジャーズのいう援助的関係は「深い人間的な関 係」(a deep human relationship)そのものを示しているのであり、それが今日の 世界と文化の中で、我々個人に最も渇望されておりながら、得られずにいるものでは ないか、というふうに言わずにはおれないのです。ロジャーズがカウンセリングや精 神療法の領域から出発して、しかもそれを超えた人間学的意味を持つのは、この深い 人間関係の意義を、あらためて、臨床の場から、科学的方法をもって明確にしてくれ た、と言いたいのです。

 大段智亮「人間関係の条件」/医学書院(1977)


 
カウンセリングの技法


言葉の技術 その1

  面接場面で基本的に重要なのは、援助者の「態度」であっ て言葉のいいまわしではありませんが、「理解的態度」をとろうとするとき、それに ふさわしい言葉の技術が必要となります。

* 単純な受け止め( simple acceptance )

 これは、「うん、うん」「はい」「なるほど」「そうですか」といった、い わゆるあいづちです。否定、肯定、違った見方、同情など一切を含まず、単 純にそのまま受け止める応答のことです。

* 繰り返し(restatement )

 これは、相手の言葉や話の内容をそのまま繰り返すことです 。かならずしも相手の使った言葉どおりでなくても構いませんが、賛成、反対、解釈等一切しないで、 ただ相手の言ったことを繰り返すだけです。
   例えば、 クライエントが「もう死にたい」と言ったとします。それに対し「もう死にたいのね」と、 応じる言い方です。実際の場面では、こんなふうに相手の言うままを素直に受け取ることはなかなか難しいものです。
 言葉の技術としての「繰り返し」は、それほど難しいものではありません。
その難しさは、その基本にある「理解と受容の態度」をとり続けることの難しさからきています。

* 感情の明確化( clarification of feeling )

 これは、言葉の技術では一番難しいものといえます。これは、相手の言葉の中にこもっている感情や情緒的な調子を、 こちらの言葉でハッキリと表現してみるような応答のことです。
   前の例でいえば、「もう死にたいのね」と応じるのが「繰り返し」であるのに対し、 「苦しくて苦しくてたまらないのね」とか「とっても辛いのね」とか応じるのが「感情の明確化」になります。
こういう応答ができるようになった場合、面接場面はぐっと深まるものです。
 こうした応答がそれほど無理なく出来るようになれば、援助者として、かなりの能力が高まったと言えるでしょう。


 
言葉の技術 その2

* 非指示的リード(non-directive lead )

 これは、「それについて、もっと話をして下さい」とか「それでどうなりました」というように、 言いたいことを言うように促す発言です。

* 説明( explanation )、情報の提供( giving information )

 これは、一般的な事実を知らせたり、情報の求めに対する「返答」です。
「質問」に直面するとき/参照

* 場面構成( structuring )

  これは、この面接場面を設定する場合の言葉です。
例えば、「ここでは、どんなことを話してもかまいませんが、 時間はだいたい1時間以内ということにして下さい」といった言葉です。
通常は、面接場面の最初に言います。
時間の限界/参照

* 面接の終わり

  「では、今日はこれで終わりますが、 次回は来週の土曜日の午後2時から1時間ということでよろしいですか」といったものです。

* カウンセリング関係の終結

 これは、ある期間カウンセリング関係を続けてきた場合の、 それを終結するための発言です。例えば、「何度かお会いして話し合ってきましたが、 それでは、これで終わりにしましょう。また、必要があったら来て下さい」といったものです。


 
面接の技術 その1

* 時間の限界

 カウンセラーが「あなたのために1時間とります」と言うのは、この時間制限をはっきり告げているものです。 カウンセリングでは、こうした時間の限界をはっきり設けて、それを厳しく守ろうとします。 たとえ話に油が乗ってきた時でも、面接を打ち切ってしまいます。
この「時間の限界」は、カウンセリング関係の特色を明確に示すものと言えます。

 一体、私達は日常生活において、時間というものに無関心でありすぎるように思います。 だから、自分の時間を浪費するにも、他人の時間をうばうにも、割合に平気でおられます。 今、カウンセラーが「あなたのために1時間とります」と言った場合、 これは二つの方向の向かっての意義を生じています。
「私は、あなたに温かい気持ちを持っているが、無制限に時間を差し上げる訳にはいきません。 その時間を1時間としましょう。」
「この1時間は、あなたのためにあるのだから、あなたの自由にお使いください。」
つまり、一方は、カウンセラーの自由を確保し、 他方では、クライエントの自由を確認するのです。
 仮に、こうした「時間の制限」がない場合を考えてみましょう。 クライエントが、我を忘れて一生懸命話しだすと、時間のことなど眼中になくなる場合が多いのです。
カウンセラーは、初めはこのクライエントを尊重して、 その話に耳を傾けることができるでしょうが、カウンセラーにも他の仕事があり、 生活上の営みがあります。やがて、「もうそろそろ終わってくれないかな」とか、 「いつまで続くのだろう」といった防衛的な態度に陥ってしまします。
当然の成りゆきです。何時間でも、無制限に相手の事に心から耳を傾けられる人がいることを、 私は信じられません。議論なら一晩徹夜してでもやれるでしょう。 だが、相手の告白、相手の感情の吐露に、長時間、真に受容的、理解的態度で耳を傾けることは困難だからです。

* 場面構成の一般原則 

 場面構成は、時間の設定以外にも重要な問題を持っていますが、ここでは、 日本のロジャーズ派のカウンセラーの代表者の1人である友田不二男氏のものを紹介します。

 「あのう、私はあなたを治してあげることが出来るなどと言うことは、 とても出来ないのですが、ただ、あなたが苦しんでおられるのをこの前おききしまして、 何とかお役に立つことが出来ないものだろうか。あなたが自分の苦しんでおられることや、 心に思っておられることをいろいろ話していただければ、 何かしら打開する道を一緒になって考えていくことが出来るのではないか。
 ひとりの力ではなんともならないことでも、二人で考えていけば何とかなるのではないかと、 ただ、漠然とそう考えただけですけどね」

 この後で、友田さんは、場面構成の一般原則のようなものとして、次の三つの点をあげておられます。

(1) 面接場面は、カウンセラーが何とかしてやる場面ではないこと。
 「あなたを治してあげるなどということは、とても出来ない」

(2) カウンセラーのなすべきことは、援助し協力することであること。
 「何とかお役に立つことが出来ないものだろうか」
 「何かしら打開する道を一緒になって考えていくことができるのではないか」
 「二人で考えていけば何とかなるのではないか」

(3) したがって、この場面は、クライエントが自らを表明し、努力していく場面であること。
 「あなたが自分の苦しんでおられることや、心に思っておられることをいろいろ話していただければ」

 大切なことは、ここにクライエント中心( Client-centered )といわれるロジャーズ流の面接技法の哲学といったものが語られています 。


 
面接の技術 その2

* 場面構成の技術の問題点

 ところで、どんな形でこの場面構成にあたる発言をするかは、 なかなか難しいと言えます。クライエントは、ふつう「何とかしてもらいたい」とか 「何か良い指針を与えてほしい」という気持ちでカウンセリング場面に入ってくることが多いからです。
 それに対して、「私にできることはこれこれで、要はあなたが努力なさることです」 と相手に分かるような言葉や態度で、この場面構成をやったら、 肝心の「温かい気持ち」がカウンセラー側にないと受け取られるおそれがあります。
 そこで、こういうことをカウンセラーから告げられることによって分かるのではなく、 こういう面接関係の特質が、お互いの話し合いの相互作用の体験のなかで、 胸の底から合点できるというようなのが、本当だと言えます。

   


 
「質問」に直面するとき

 カウンセリング場面では、質問のかたちをとったクライエントの発言がたびたびあります。 「沈黙」と並んで「質問」は、そこに大変難しい問題をはらんでいることが多いのです。
 まず「質問」は、「わからないからきく」ときだけに用いられる発言形式ではないということであす。
 例えば、あるクライエントが「お話したいと言うのはね、あのね、○○療法にね、先生は賛成ですか、 反対ですかってことをはっきりききたいと思ったんです」と言ったとします。
この場合は、すでに自分の方に「あれには反対だ」という気持ちがあって、 それを承認してもらいたいと要求している場合があります。
だから、その場合において、「私は、賛成です」とか「反対です」とか返答することは、 このクライエントの言葉に返答していますが、その言葉のなかにこめられている気持ちに応答したことにはならないのです。

 さて、質問は三つの場合があります。
一つは、純粋に何ごとかについて知りたいときの質問ですが、これには、はっきりと返答します。
次は、前の事例のように、すでに自分の意見、願望、要求などがあって、その承認を求めている場合です。
もう一つの場合は、「あなたはイヤです」とか「こんな話し合いはかないません」といった、 相手や話し合い場面に対する拒否的、攻撃的感情を表す場合です。 例えば、「あなたとは、もう話し合いたくない」という自分の気持ちを、 相手に、「まだ、話し合いを続けられるんですか」と尋ねる場合等です。

  カウンセラーが、こうしたクライエントの「質問」において直面する難しさが何からくるかというと、 クライエントの依存的態度や防衛的態度だと言えます。
自分自身の問題の解決を誰か他の人にやってもらいたい。 自分で責任を負いたくない。自分の現在の状況をはっきりさせたくない。 右へも左へもいけるようにしておこう。こういったクライエントの態度が、 質問という形式の中に込められていることが多いからです。

 ロジャーズは、カウンセリングにおける面接場面では、「相手の言葉の知的な内容に返答するのでなく、 その感情的、情念的内容に応答せよ」という原則を立てています。
その点、私達は、日常生活において、あまりに早く分かりすぎるし、また、 あまりに早く返答しすぎているようです。

「沈黙」を重んじる

  普通、話し合いの途中で、相手が黙ってしまった場合、無神経な人は、「相手が受け入れた」とか、 「言い負かしてやった」等と思いがちですが、 沈黙はそんな簡単なものではありません。  普通、面接場面での沈黙の内容を考えてみると、次のような場合が考えられます。

(1) 相手に対する拒否的感情
 つまり、「あなたなんか、きらいです」「あなたなんか、顔も見たくない」という強い否定的感情がある場合。

(2) 話をすること自体に対する拒否的感情
 「こんな話、したくない」「早くこの面接が終わればよい」といった気持ちがある場合。

(3) どう言ってよいか分からない、とまどいした沈黙

(4) 何か新しい一歩が前進できそうで、考え込んでいる沈黙
 この沈黙は、前向きの意味を持っているといえます。 そして、この沈黙のなかでこそ、最も激しく深い感情が流れているのであり、 また、この沈黙のなかでこそ、飛躍的な一歩前進が準備されていることに気付かねばなりません。 カウンセラーは、この沈黙こそ、相手が自ら話し出すまで、黙って見守る姿勢が必要です。

「沈黙は、決して消極的なものではない。沈黙とは、 単に『語らざること』ではない。沈黙は、一つの積極的なもの、ひとつの充実した世界として、 独立自存しているのである。」

(「沈黙の世界」マックス・ピカート/佐野利勝訳・みすず書房)


 

「二値的考え方」と「多値的考え方」

この人間理解の問題について、「二値的考え方」と「多値的考え方」の二つの考え方について、「思考と行動における言語」 (S.L.ハヤカワ/大久保忠利訳・岩波書店)から紹介します。

何か問題があったとき、「一方の意見だけをきいて考えるのは不公平だ。両方の意見をきいてみないといけない」という言い方 をよくしますが、そこには、無意識のある仮定が含まれているのではないか。つまり、あらゆる問題は二つの面を持っている。 いや、二つの面しかない、という仮定です。

 「良くないものは悪い」し「悪くないものは良い」のだといった黒白の対立で考える傾向を、私達は強く持っています。 テレビを見ていても、あれは「善玉」これは「悪玉」といった見方をしますし、この俳優ならきっと悪いことをするに違いないといった 予測さえたてられることもあります。

 このように世界を二つの対立する力、つまり「正」と「邪」、「善」と「悪」、「白」と「黒」の二つに分け、その中間とか中立とかいった あり方を認めない傾向を「二値的考え方」(two-valued orientation)と名付けています。
私達も普段、これと類似の考え方ややり方をしています。例えば、「あの人は、こういう人だ」といったレッテルをはるやり方です。 あれは、「問題児なんだ」となると、その人のいうことは頭からきかないことにします。

 この「二値的考え方」に対して、「多値的考え方」(multi-valued orientation)といわれる立場があります。 それは、「善」と「悪」の二分法に対して、最高の善と最低の悪との間にたくさんの、あるいは無限の段階を認める考え方です。 「非常に悪い」「少し悪い」「普通」「少し善い」「とても善い」は五段階法です。また、この点では「善」が、あの点は「悪」いというように 多元的にみる見方もあります。天使と悪魔、白と黒といった絶対的対立の世界ではなく、段階的に連続する、あるいは多面的なもの が統合される、といった考え方です。

 さて、問題を提起する場合、あるいは何かについて主張する場合、必ずこの「二値的考え方」が必要になってくることがあります。 これは間違っている、ダメだ、と言わねばならない時があります。しかし、それは出発点であって、目的ではないと、 S.L.ハヤカワ氏は次のような上手な言い方をしています。

「二値的考え方は、航海の原始的方法として起動器と操舵器の二つの機能を一つにかねる櫂(かい)のようなものである。 文明生活においては、二値的考え方は、その感化的な力で関心を起こさせるので、起動器となることもある。しかし、多値的、無限価的考え方こそ 我々の船を目的地に向ける操舵器である。」

(S.L.ハヤカワ著、大久保忠利訳 「思考と行動における言語」 原書第三版 岩波書店)

 さて、私達は日常の会話において、自分自身の「二値的考え方」を警戒しなくてはならないとS.L.ハヤカワ氏は言っています。
こういった考え方に立った会話は、結局のところ「槍試合」であり、つつきあい、やりあいといった対立関係になります。 つまり、相手の間違いを取り出し、その知識の不足をあばき、自分の学識の高さと論理の正しさを示そうとします。そういう論争は、 時間的には浪費となり、精神的には有害となります。

 会話などのコミニュケーションを実りあるものにするには、「多値的考え方」の体系的な適用を行うことです。 「真」か「偽」かの二分法ではなく、全ては0から100パーセントの間の真理値を持つという考えに立つようにすべきでしょう。

実例をあげて説明しますと、今、誰かが
「あいつは、手のつけられない問題児だよ」
と言ったとします。それに対して、
「とんでもない。そんなふうに考える方が問題だ」
とやり返すのは、「二値的考え方」の論理に立っています。

「どういう意味か、もう少しきかせてくれないか」
こう応じるのが、「多値的考え方」の態度です。 そこでは、こうした判断を下すに至った彼の考えのプロセスが語られ得るであろうし、その中でその考え方を修正する可能性も出てくるのです。

 私達は、話すことと同様に「聴く」ことが出来なくてはなりません。「反応する前に耳を傾けること」です。 私達は、反応する前に、もっと事実を確かめる必要があります。いかなる言葉のいかなる表現も、全てを語ることは出来ないのだから、 反応を少しのばして「もう少し話してみてくれませんか」と応じることが重要です。

  (参照、大段智亮著 「面接の技法」 メジカルフレンド社)

 


 
自己洞察

 自己洞察について、ロジャーズは、次のように説明しています。
まず、洞察とは「今までと変わりのない事実を、新しい目で眺めること」です。 別に新たな事実が加わるわけではありません。しかし、意味が変わってくるのです。 例えば、今まではどうにもならないほど差し迫った状況だと思われたのだが、 考えてみると、それほどでもなかった、というような場合、事態は変わっていないのに、 状況把握の態度は変わっているのです。洞察とは、新しい認識の仕方だといえます。
 しかし、洞察の核心になるのは、自己理解と自己受容です。自分というものがわかってくる。 そのわかってきた自分のありのままの姿が受け入れられる、というふうになるのです。 例えば、今まで友人達のことを激しく攻撃してきた人が、ちょっと黙り込んだと思うと、 「まあ、考えてみると、私も悪かったんですよ」と言うことがあります。 おそらく、声の調子も深くなっているはずですが、これは自己洞察であると言えます。
 今までは、問題の原因は外部にあるとばかり考えてきたし、それを激しく攻撃してきたのです。 ところが、その人の心にうっ積した感情が発散してしまうと、 「まあ、考えてみたら」と言うような言葉が出るようになります。つまり、 違った見方をする新しい態度があらわれてきます。これが自己洞察なのです。

* 自分との関係

 さて、今さらながら人間というものの厄介さを思わせられます。
自分に最も身近な最も大切な自分自身が、いちばんお留守になり、 しかも他の人に対していつも評価的な眼でみて、あれこれ批判したり、裁いたりします。 それが、人間の実状です。他の人には厳しい眼でみるくせに、自分自身のことは、 適当にごまかして、格別として扱ったりします。
 自分にいちばん身近ななものは、自分自身ですが、自分からいちばんかくされているのも、 また、自分自身なのです。そういう自分自身とどういう関係をつくってゆくかが、 その人のパーソナリティの建全さを左右するのだ、というのが、現代の治療心理学の見方であると思います。

* 自己の確立

 わたしたちの社会のなかには多くの悪があり、こんなことが許されてはいけないということがたくさんあります。 それと、わたしたちはたたかってゆかねばなりません。 ただ、その場合「たたかうべき相手」が外部にだけいると考えてはいけません。 本来、自分自身もそうした悪にかかわっているのです。だから、何よりも大切なことは「自己自身」がしっかりすることです。 「自己の確立」なのです.
 たたかうものは、常に「自己自身」の根本にかえりつつ、 「意味あるたたかい」をつみあげてゆかねばならないと思います。
 あらためて、「自己自身」に立ち戻る機会と場所をつくる。それが、人間学教室という学習会の目的なのです。


 
「理解ある傾聴」

人間相互の間のコミュニケーションをさまたげる障壁は何かというと、 ロジャーズはずばり「評価的傾向」(tendency to evaluate ) であると断言しています。
それでは、こうした障害を乗り越えて、コミニュケーションの通路を開拓するにはどうしたらよいか、 ということですが、それは、「理解ある傾聴」( listening with understanding ) においてこそ開けるのだ、と言っています。
ただ、ロジャーズのまことに気のきいた表現を一つだけ紹介しますと、「共感的理解」とは、 「相手について(about)理解する」のでなく、「相手と共に(with)理解すること」 だといい、これはきわめて効果的なアプローチだ、と言っています。

 ところで、こうした「理解ある傾聴」つまり「積極的傾聴」を実践しようとするとき、 いくつかの問題点が考えられますが、ロジャーズは、次のようにまとめています。
 まず、「勇気が必要」なのです。仮に相手を本当に理解したならば、今までの自分の見方、 考え方が変わるかも知れない。相手の影響を受けるようになるかも知れない。
そこで、相手に理解的態度をとるということは、「場合によっては、 自己自身が変えられてしまう危険をおかす」ことを意味するのです。
だから、「何よりもまず必要なのは、勇気である。 しばしば、我々に欠けているものは勇気である」と言っています。

 第2の問題は、「高ぶった感情」です。
普通、「頭にきた」とか、「気が動転した」 あるいは「失意落胆」とかいわれる状況では、「理解ある傾聴」は不可能です。
お互いが「人の言うことが耳に入らない」あるいは「相手は悪人で自分は善人」 と思い込んでいるといった状況では、相互のコミニュケーションは破れるばかりです。
どちらか一方が、あるいは両方が、自分の感情に流され、追い立てられるような状況を乗り越え、 自己を取り戻して相手に傾聴できるようになる以外、どうしようもないのです。 そこで、この両者に対して「接触反応剤のような役割を果たす」第三者の効用をロジャーズは強調しています。

○ 相手の気持ちが良くわかる人間になるには

I have found it to be of enormous value when I can permit myself to understand another person.

私が他人を理解することを自分に許すなら、非常に大きい価値があることを発見しました。

こういう言い方は、皆さんには聞き慣れぬことでありましょう。 「他人を理解することを自分に許す」と言うようなことが必要でしょうか。私は必要だと思うのです。
 私たちは他人の言葉を聞いた時、まず最初にそれを理解するというよりも、すぐに評価したり評定し たりします。誰かが感情、態度、信念を述べると、それに対し私たちは「それは正しい」、「馬鹿げている」、 「異常だ」、「間違いだ」、「あまり良くない」といった感じをすぐ持つ傾向があります。 彼の言葉が彼自身にとってどのような意味があるかを理解しようとすることはほとんどないのです。 というのは、理解することは危険なことである、ということによるようです。
もし私が本当に他人を理解しようとするならば、そのために私が変化するかも知れないのです。 しかも私たちは皆変化を恐れています。従って私が申しましたように他人を理解することを自分に許し、 他人の世界に感情移入して入り込むのは容易なことではありません。それはごく稀にしかできません。 理解するということは、二重の意味で心を豊かにすることになります。
悩んでいるクライエントに接して、精神病的な人の異様な世界を理解したり、人生に絶望を感じている人の態度を 理解したり、感じ取ったり、自分は価値のない劣等な人間だと思っている人を理解することー全てこのような理解は、 何かしら私を豊かにしてくれます。私はこうした経験から、自分を変化させ、異なった自分にすることを学んでいます。 つまり相手の気持ちが良くわかる人間になっていくのです。

○ その人も変化する

このことよりも、もっと重要なことは、このような人たちを私が理解するとその人たちは変化するようになるという事実です。 私が彼らを理解すると、彼らは自分の持っている勇気、親切、愛、感受性といった感情を受容するだけでなく、恐怖、 異様な考え、悲しみ、失望といった感情も同じように受容できるようになるのです。
これは私の経験でもあり、またクライエントの経験でもあります。そのようなときにクライエントは、その感情も自分自身も 変化しつつあることに気が付くのです。
こうした人たちは非常にポジティブ(積極的)な価値をもっているということです。 この意味でも私が他人を理解することをは非常に大きい価値があると思われるのです。


 
クライエント中心療法のプロセス

1 心理療法の一般的プロセス

 仮に、ここにカウンセリング関係が設定されたとします。そうすると、クライエントはまずどういう段階に入ってくるか。最初の段階は、表現(expression)が自由に解放される段階です。「感情の発散」といった方が分かりやすいでしょう。
ぶちまける、吐き出す、といった段階で、個人的な感情が噴き出してくる状態です。不安、恐れ、悲しみ、憎しみといった否定的感情が吐露される段階です。それはたいてい筋の通った説明ではありません。いや、むしろ筋の通った説明をしているうちはホンモノではないとも言えます。つまり、知的な問題として扱うことによって自分の問題を一般化し、抽象化するのは自己防衛のメカニズムによって作り出された偽装である場合が多いのです。その人のナマの感情が自由に表現されること、その自由な表現によって、その人の中に抑圧されうっ積されてきた感情が発散すること。これが第一の段階です。いわゆるカタルシス(catharsis)とよばれています。日常生活においても私達は、不平、不満を誰かにぶちまける。抑圧された感情をぶちまけて、それによって心の余裕を回復するということをしています。

 さて、こうした否定的感情の自由な表明、抑うつしてきた感情の発散という段階を歩きつくすと、それとは異質な傾向がクライエントの中から芽生えてくるのです。それが、「洞察(insight)」あるいは、「自己理解(self-understanding)」の段階です。

 ロジャーズは、カウンセリングの場面において「否定的な感情が激しく深刻に表明されればされるほど、そしてそれが本当に受容され、認められるならば、それだけ確実に愛情や社会的な欲求、あるいは自尊心とか成熟への欲求といった肯定的な感情が積極的に表明されるようになる」と述べています。
 ロジャーズは、これを治療的面接場面について言っているのですが、日常生活においてもそのような経験に思い当たることがあります。例えば、ある人の悪口をずっと言い続けていると、「しかし、彼にも、いいところがないわけでなない」などと言うようになってきます。つまり、もう一度彼を見直す、といった積極的・肯定的な傾向がその中から出てくることがあります。

 ロジャーズは、このあたりの描写を次のように述べています。

 カウンセラーは、否定的感情を受容し認めたと同じように、表明された肯定的感情をも受容し認めていく。賛同や賞賛は無用である。道徳的な価値評価は、このタイプのセラピーには無縁でなければならない。こうした受容の態度こそ、個人に自分自身を現にあるがままに理解する、生まれて初めての好機を与えるのである。彼は自分の否定的な感情を防衛する必要はない。また、自分の肯定的感情を過大評価することもない。このような場面において、洞察と自己理解がおのずからにして「泡立ち」はじめるのである。

 この個人の中に「泡立ち」芽生えてくる洞察ないし自己理解こそ、ロジャーズが最も重視したものなのです。仮にも、何らかの人格的発展、人間的成熟、自己の再編成があったとすれば、その基底には、洞察と自己理解という礎石があるのだ。これが、ロジャーズの主張なのです。

2 自己に収斂する

 ロジャーズは、臨床的場面におけるクライエントの変化について、さらに幾つかの傾向を挙げています。

 その(1)は、「兆候から自己へ」の動きが明白に現れることです。最初、クライエントは、もっぱら問題状況のさまざまな面を取り上げます。そこで発言は、もっぱら問題状況をめぐって旋転するのですが、やがて次第に自分自身に関わってくるようになります。自分の本当の気持ちはどうなのか?自分は一体どういう人間なのか?自分の「真の自己」はどういうものか?そういった話題を中心とする発言の量がぐっと増加してくるのです。

 その(2)は、「環境から自己へ」「他人から自己へ」の動きです。最初、クライエントは自分自身ではなく、むしろ自分をとりまく環境や他人についての問題をいろいろ検討しようとするのですが、やがて次第に無自己的なもの排除して、自分自身を探索するようになってきます。

 以上総合すると「クライエントの関心は次第に自己に収斂してくる」といってよいでしょう。自分の周りや自分の示している問題的兆候といったものよりも、自分自身が最も重要なものとして自分の前に出てくるのです。
つまり、「自己理解」や「自己洞察」といった段階へのぼってくるのです。

 その(3)は、「知覚の仕方における変化」です。いままで気づかなかった自分の経験にあらためて気づき、それを意識的な考察に役立てるような傾向、といっていいでしょう。

抽象的で分かりにくいので、ロジャーズの例を引いてみます。ある娘が、自分の母親へのたまらない感情をこんなふうに言います。
  「お母さんのようなふしだらな女の人は、とても、わたし、一緒にやっていけません」  ところが、セラピーの期間中、彼女は母親についてのさまざまな経験を分化された仕方で知覚しはじめるのです。
  「お母さんは、幼いときの私には拒否的だったけど、時には気ままにさせてくれることも あった」
  「お母さんは、善意の人でユーモアがある」
  「自分の娘を自慢したがっている」
 このように、この娘は、幼児期の自分と母親との関係から再検討していき、最初の全体的な一般化では到底あてはまらないようなさまざまな具体的経験を、全体として知覚し直すのです。「ふしだらな女」という母親への批判は、一面の真理であっても、母親と自分の関係は、こんな一片の抽象的言辞では到底表現しつくせないことに気づくのです。
 その(4)は、「過去から現在へ」動きです。「今、ここにいる自分」をカッコに入れて、過去のこと、他人のこと、環境的なものについて述べ続けるのはセラピーの初期によく起こることです。やがて、現在のあるがままの自分を発見することに心を向けるようになってきます。

3 自分との関係

 こうしてカウンセリングのプロセスは、「自己」に焦点があてられていくことは明瞭です。
ごく簡単に言えば、日常生活で前向きの適応関係を作っていけない人は、実は、自分自身との関係が正しくないのだ、ということです。自分が正しく自分自身を認め、自分を一個の人間として価値ある存在として大切にできる。つまり、正しい意味で「自分を愛する」ことができる。そうなって、はじめて、その人は他の人を愛し、その人との間に前向きの、ほんものの関係をつくっていくことができるということになります。そこで、このカウンセリングのプロセスは、クライエントがとりもなおさず自分と自分との関係の歪みが直っていく過程だと、大まかに言うことができるのです。



 
学習の原理と方法



大段智亮氏による学習の原理と方法

 私達は、こうした人間の援助的活動を可能なら しめる「前向きの人間関係を新しくつくり出す能力」を身につけなければなりません 。
 ここでは、大段智亮氏による学習の原理と方法について解説します。

1 学習の第一の原理 → 現実の問題を取り上げる。

 「人間と人間関係」についての学習をはじめるには、まず第1に、 抽象論・一般論をやめることです。 教科書を覚えて、それで問題を解決しようといった方法は捨て去ることです。
 「わたし自身が」「いま」「直面して」「困っている」「現実の」問題を持ち出し、 それと「取り組む」ことです。
 例えば、一人の親としての私の人間的なあり方は、親子関係「について」、 又子供一般「について」、いくら知識をふやしても、 「意味ある変化」をもたらしません。そう言う知識は逆効果である場合さえ多いのです。 育児書の氾濫が育児ノイローゼを養成しているのと同じ事情がそこにあります。
 そこで、学習者自身が、いま全身全霊的に悩んでいる現実問題を取りあげ、 それと格闘するなかで、いろいろの知識を消化していく。これが、本筋です。
 「はじめに知識ありき」ではなく、「はじめに問題意識ありき」でなければなりません。

2 学習の第ニの原理 → 適切な学習集団が必要

  さて、第ニの原理は、「適切な学習集団が必要」ということです。
 人間の学習は一人では成り立ちません。他の人とのふれ合い、ぶつかり会いの中で、 初めて可能になるのです。

 一人の人の成長は、その人が一人だけで存在しているのであれば、 起こり得ない。人は自分自身を理解するためには、他の人と作用し合うことが必要である。 そうすることによって、はじめて人格的発達が起こるのだ。

人間の成長変化が起こるための最も基本的な必要条件は、「自分に気づく」(self-awareness) と言うことである。 つまり「自己感得」ということであるが、どうしたら、この「自分に気づく」ことが、 より多く起こるようになるだろうか。

 その直接的な方法は、他の人が自分をどう見ているか、どんな影響を与えているかを率直に言ってもらうことである。 そして、それを歪曲することなく受け取ることができるならば、そこでは、 今まで気づかなかった自分について新たに気づくことが可能になるであろう。
この意味において、「自己感得」「自己理解」には、他の人の力添えがいるのである。
 そうしたことが可能になるような関係をクリス・アージリスという行動学者は、 「よるべき本物の関係」(authentic relationship) とよんでいるのである。

(大友立也著/アージリス研究・行動科学による組織原論)

 私のいう「適切な学習集団」というのは、アージリスのいわゆる「ほんものの関係」 が成立し得るような集団ということを意味しています。
 では、こういう学習集団が成立する条件は、まず「学習援助者」が、その集団に存在すること。 そして、その学習集団は、5名から10名程度の小集団であること。 また、学習のために相互に接触する時間に、相当の長さがあること。例えば、 1回3時間から5時間の学習時間を毎週1回ずつ数回くり返すとか、又は2、3日宿泊して生活を共にする学習会をするとか言うものです。

3 学習の第三の原理 → 行動科学の原理(行動を通して学ぶ)

 第三にあげたいのは、行動科学の原理です。
行動と実践による学習であること。コトバや理屈による学習であってはならないこと、これを強調しなければなりません。
Learning by Doing. まさに、この通りで、行動を通して、そこに起こる現実経験を通して学習することが大切です。
第三者的な知識の集積では、「人間と人間関係の学習」は進まないのです。

4 学習の第四の原理 → 「事実」をとらえ「自己自身」に出会う(事実学習)

 さて、学習の第四の原理として、私は「事実学習」をあげたいと思います。つまり、今、 ここに出現している「関係の事実」を捉えて、それを学習の場におくことだ、と思います。
 具体的に説明してみましょう。私が実際にAさんと話し合った場面をテープレコーダーで録音し、 それを前に説明した学習集団に持ち込んだとします。
 この話し合いをする時、私の「つもり」では、いま問題状況にあるAさんを深く理解しよう、 決して自分の都合を中心におかず、Aさん自身の心を正しく理解しよう、と言うのでありました。
 しかし、このテープを何人かの学習仲間にきいてもらい、その人達に容赦なく正しく分析検討してもらったならば、 この場面の「事実」としては、理解的関係は全くなかった、と言った場合もある訳です。
 私の個人的な「つもり」は、「理解」をめざしていた。しかし、実際にそこにつくり出された関係の「事実」は、理解的どころか、 その正反対の場合が起こったということなのです。
 つまり、「つもり」と「事実」は、一致しないことが多いのです。

私達は今まで、「人間と人間関係の学習」において、個人的なつもりの次元で、 努力や工夫を積んできました。したがって、それがややもすると、 独善的あるいは孤立的になることが多かったのです。
 相互関係のダイナミックスを事実としてとらえること。その事実をはっきり見据えることから、 学習が始まらなくてはなりません。
 その点、テープレコーダーは、その最も簡便なもののひとつであり、 そうした関係のダイナミックスを、主観的な歪曲なしに捉えることができ、 そのおかげで、まことに学習的意味の大きな工夫が可能になりました。

○ クライエント中心療法心理相談室が開催する「きき方教室」は、基本的にこの原理と方法によって実施するものです。詳しくは、CCT心理相談室ご案内のページを参照してください。

 参照 大段 智亮著「病気のなかの人間関係」/医学書院/1974年